右手と左手に一つずつ

好きなことと日常生活についての雑記

旅行してきた 彦根編②

前回の続きです。

 

tomiko.hatenablog.com

 

3月18日、5月24日 佐和山城

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(天守跡:2017.3撮影)

 

■概要

 佐和山城石田三成の居城として有名だが、始まりは鎌倉時代まで遡り佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦であるとされ文献にもその名が見える。戦国時代に入ると北近江における六角氏が勢力を伸ばし、戦国時代が後期になるにつれて六角氏の勢力が衰退すると新興勢力の浅井氏の支配下に入る。城は磯野員吉に引き渡され小谷城の支城の1つとなった。

 その後、城主となった磯野員昌は織田信長と8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げて信長に降伏している。代わって織田氏の家臣の丹羽長秀が入城し、北近江六郡と若狭国の支配拠点とした。

 本能寺の変の後に行われた清洲会議明智光秀討伐に功のあった堀秀政に与えられ、これ以降は豊臣政権下の城となっていく。豊臣政権において五奉行の一人だった石田三成天正18年に入城したとされるが文献上にみえるのは文禄4年である。石田三成は入城後に大改修を行って山頂に五層の天守(三層説あり)をもつ城郭を築き、”三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城”と言わしめた。

 関ヶ原の戦いの後、徳川家康は小早川軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の多くは関ヶ原に出陣していたため城兵は2800人ほどしかおらず、健闘したものの一部の兵が裏切り落城した。その後、徳川四天王の一人である井伊直政が入城したが、中世的な縄張りであったことや、三成の居城であったことで領民たちの前領主への思慕が残ることから彦根城の築城を計画した(実際に築城したのは直継)。その際に佐和山城は徹底的に破城されることとなった。そのため、遺構として残っているのは石垣の一部や土塁、堀、曲輪などであまり多くはない。

 

 

 

 1度は行ってみたかった三成の城、念願が叶いました。最初に行ってみようと思ったときに場所を調べて驚いたのが彦根城の近さ、目と鼻の先です。佐和山城のついでに彦根城行けるじゃないか(無知)と思い、スケジュールを組み直して先に彦根城に行ったわけですが、彦根城の荘厳な佇まいに対して破城され何も残らない敗者の城というのが印象深く残る結果となりました。これは三成に思いを馳せずにはいられないと1回では足りず5月にも訪問しました(3回目も決行済み)。行けば行くほど惹かれていくのが不思議です。

 3月に行ったときには麓の龍潭寺から登って同じ場所へ下りました。道は一本道だったのと案内板があったので迷うことはありませんでしたが、幅が狭い上に傾斜が急な場所があったのでサンダルやヒールはNGです。山頂まで大体20~30分で登れます。

 

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(2017.3撮影)

大体こんな感じの山道、人とすれ違うのがちょっと怖くなる道幅だと思えばいいかと。

 

 

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かもう坂通り往還と呼ばれていた切通しを経て登っていくと、最初に見られるのがこの塩硝櫓跡と呼ばれる曲輪。中央に大きな穴があったが、説明板を見ても用途はまだ分かっていないそうだ。

さらに進んでいくと塩硝櫓跡と同様の曲輪が2段連なっていて、3段の曲輪を合わせて西の丸というようです。ちなみに塩硝櫓は下段で、説明板は上段にあったので説明を読んだ後に戻って確認したくなりましたw

 

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(天守跡:2017.3撮影)

 西の丸から10分ほど登って山頂の天守跡に到着。思ったより広かったし高くて景色が良かった。周囲には彦根城や琵琶湖が見下ろせます。地理的にはすぐそばを国道8号線や新幹線、JRが通っていて、戦国時代に遡れば北国街道や中山道が通っていたわけなので交通の要衝と言われるのがよくわかります。

 

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(隅石垣:2017.3撮影)

天守跡から南西に少し下ると算木積みになった石垣が見られる。この石垣は天守の石垣の基底部で隅部に位置するため天守閣の範囲を推定するにはとても重要だそうで、個人的にはこれだけ徹底的に破城されているのにここだけ残っていたことがすごいなとおもいました。

 

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(千貫井:2017.3撮影)

隅石からさらに下ったところにある井戸。本来はもっと小さかったらしいが人の手で掘られて広がった。山腹にあるこの井戸は城内の水を確保する上で千貫にも値する貴重なものである。因みに、千貫井より少し上の斜面にも石垣が露出している部分があるそうだがそこまで行くのは難しそうなので断念した。5月に来たときには人が入れないようにロープが張ってあったので行かずじまい。なにより史跡の保存という意味でもむやみに行かない方がいいのだろう。せっかく残っているものを素人が荒らして価値が損なわれてしまっては元も子もない。帰りはもう1度天守跡に登ってきた道を帰った。

 

5月に来たときは、偶然にも麓で地元の方2人に出会って大洞弁天を通るルートで登って国道8号線に下りるルートを通った。途中の分岐点で太鼓丸方面に向かいました。

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(太鼓丸?:2017.5撮影)

道なりに進んでいくと平らで開けた場所に出たので多分これが太鼓丸なんじゃないかと思う。木も藪も鬱蒼としていて本当に曲輪なのか曖昧で自信はない。で、この下に千畳敷があるようだったが藪が酷くて進める気がしないので諦めた。ここからもう1度分岐点に引き返し、今度こそ下山ルートへ。

 

途中で法華丸へつながる分岐点がありましたが、明らかに人為的に置かれた大きめの枝が行く手を阻んでいたのでそちらには行かず素直に下山しました。下山して振り返ってみればこんな標識が…。

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ここから入山するのは駄目だったようです(下山だからセーフに近いアウト?)。なにより同行して下さったお二方がかなり心強かった。3月に1人で登ったときより断然安心して登れました。そんな2人とはここでお別れして、私は大手方面へ向かいました。

 

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